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大人になりきれないおとなの日記みたいなもの

生き辛さや、その時感じた感情など、なかなか他人には言えない事をつらつらと書いていこうかなと。

仕事への取り組み方

自分の仕事への取り組み方は、仕事の先にいるのは自分だ。要するに、都合や希望は全て自分の方を向い仕事をしている。

とあるネット番組で、仕事の取り組み方的な話を聞いた。その人曰く、仕事とはお客の方を向いて、どうしたら顧客に喜んでもらえるのか、そういった考え方をしながらでないと、早い話給料のため、お金のためだけに仕事をすることになり、結果スキルも上がらず、モチベーションも下がり、やる気も失うと。

このアドバイスは、営業職の人に対してのものだったから、その仕事の先には、直接お客がいるわけだ。自分に置き換えると、営業職ではないので直接先に顧客がいるわけではない。ミスなく遅延なく業務を遂行するとこが会社のためになり、その先に顧客がいる。順序は逆かもしれないが。どちらにせよ、自分の業務はどうしても自分の方を向いてしまう。ミスを恐れ、改善することもなく、ただ、決められた業務を遂行するのみ。

最初のアドバイスのように、顧客目線で仕事をすることが、結果的に会社の利益に繋がり、ひいては自分にも評価として返ってくる。

と、これは理想論。理想的な考え方だ。勿論、このような働き方をしている人もいるのだろう。もしかしたら、自分の認識が甘々で、大多数の人がこういう働き方をしているのかもしれない。

しかし、どう働こうが人が人を評価する今のシステムでは、不平等、理不尽、差別、こういったことは消えることはないだろう。ちんたら働いて過ごしても、一生懸命過ごしても、見えない人には見えないし、見てる人は見てくれている。しかしながら、そんなことはどうでもいいことなんだと。人様のために働き、生きていきなさいということを最初のアドバイスはいっているのだ。

わかるよ、わかる。いってることは至極真っ当なことを言っている。正論だ。

しかし、本当にそんな働き方が、自分の感情は置いといてなんて働き方が出来るのか?

働く理由はお金だ。綺麗事を並べたってそこが真実だ。

理想と現実。少しくらいは、理想を取り込みたいとは思う。

死にたいと思うのは何故か

これは自分にとって、毎日のように考えてはなかなか答えが出ない難題。

周りの人に、それとなく聞いてみると、同じような考えの人が多いことに驚く。程度の差はあろうが、みな生きる希望みたいなものがあまりないんだろうか。だから、楽な道=死になるのかなと。

死んだら無であって欲しいし、でないのなら死ぬ意味がない。

話を戻すと、死にたいと思う理由は簡単だ。現状に絶望しているから。改善すると思えないからだ。

人が生まれた意味はないと考えてはいるが、生きて行く理由みたいなものは何かしら欲しいものだ。それに対しての自身のモチベーションが、なかなか保てない状況。だから生きて行くよりも楽と考える『死』を安易に考えているのだろうか。

生き死にとは何なんだろうか。

ただ、もう少し楽になりたいだけなんだ。

何だろうか

何だろう、このわけもからない不安感は。特にこれという何かがあるわけではないのに、こころがザワザワするような不安感。

仕事、将来、健康、その他様々なものが重なり合ってもたらされるものなのか?

ネットで調べるとそれを『病的な不安』と呼ぶらしい。理由がないのに生じるもので、何らかの精神的、身体的な疾患の特徴らしい。

そりゃまあ、病的だろう。精神的に様々なものにストレスを受けながら生きているのだから。むしろ、何も感じないで、暮らしている人の方がどうかしてるんじゃないかと思うくらいだ。

問題は、そこからどうするかだが、そこには精神科または心療内科に行けとある。もうこっちは行ってるって。薬を飲みながら生活しているよ。

恐らくは、自律神経からくるものだろう。しかし、この状態で生きて行く限りは現状どうにもならない。いや、考え方を少し変えていければあるいはどうにかなるかもしれないが。

この世の中に、幸せを実感しながら生きている人ってどのくらいいるんだろうか?自分には本当に信じられない。不安や恐怖が心の中のかなりのスペースを占めている。

 

なんで生きてるのかな。ほんとこれに尽きる。

やる気ってなんだろう

タイトルの通りだが、やる気っていったいなんなんだろうか?

今の自分には様々なやる気がない状態だ。仕事、趣味、いや何よりも生きる事にやる気が持ててないのが一番たちが悪い。

何をするにも惰性というか、流されている感じだ。行先はどこなんだろう。自分にも今はわからない。

で、やる気ってやつなんだが、自分にも時々やる気ってやつが湧いてくる。あの仕事にもだ。なんなんだろうかと思うが、ようは単純な事。自分のこころが勝手に決めているから。所謂昔から言われている、こころのもちようってやつだ。しかし、このこころのもちようの制御が自分では出来ない。全てなんとなくで始まり終わる感じ。もし、自分でこれを制御できたなら、もっとまともな精神状態で暮らせることだろう。その方法は、物事を自分で決める勇気とか覚悟みたいなものなのかな。

以前、ここにも書いたが、相田みつをの詩で、『しあわせは自分のこころが決める』というのがあるが、これにつきるのだろう。こころのもちようで苦しくも楽しくもどちらにもなりうる。

考え方の癖みたいなものが、長年の生活で自分の中にこびりついている。これを『性格』と呼んでも良いと思う。この癖を少しでも変えていけたなら…

訓練なのかな。

親、批判を承知で少し書きたい。

人間が育つ課程において、親の存在はとてつもなく大きいと思う。よく大人になったら、二十歳を過ぎたら、自身の責任だ的な話も聞くが、ではその大人を作り上げたのは誰なんだろうか?確かに生まれながらの資質みたいなものもあるだろう。同じ親に育てられたのに、兄弟の性格が違うのはなぜか?

しかし、その人間を育てあげたのは紛れもなく親なのだ。親は無くとも子は育つ。確かにそれはそうだが、ではまともに育たなかった人間は、大人になったらどう自身で責任を負って生きていけば良いのだろうか?

ニートの問題、あれは誰に責任があるのだろうか?30歳を過ぎてニートになってるような人間は誰が作り出したのだろうか?その人間自身の責任で片付けられることなのだろうか?

親の責任だろう大半は。

私自身は、なんとか人並み程度の生活は出来てはいるが、親に対して良い感情は持っていない。自分の性格を形成する課程においての親の責任はとても大きいと思っているからだ。それを、二十歳を過ぎたらはい、親からは卒業ですといわれても、それはどうなんだろうか?

私は離婚を経験している。それは別に親どうこうのは思っていない。ただ、子供ははじめから欲しいとは思っていなかった。この感情は一生変わらないだろう。後悔もない。なぜなら自分に子供を上手に育てる自信が全く無いからだ。正直怖い。

自分自身どういう理由で生まれたのかは知らない。計画的なのか偶発的なのか。しかし、親になるという事は本当に大変なことだと思う。その子の人生を大きく左右する存在なのだ。生半可な気持ちでは子育てなんかしてはいけないと思う。一生、その子の責任を負う義務がどうしたって発生する覚悟は必要だと思うのだ。

もし子供が犯罪者になったら、その親は大人になった子供のことは知りませんでは通らないのが事実だろう。

少子化の問題、理由は色々あるだろうが、こういう問題もあっての事では無かろうか?

責任持てません。自信がありません。関わり合いたくありません。そういう人が多くなっているのでは無かろうか?

反面、上手に親子関係を築けている人は心から尊敬する。自分には無理だから。

日曜日の過ごし方

《人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。》

徳川家康の言葉だそうだ。昔々の大成功をおさめた人物が、現代人にも当てはまることを言っている。と言うことは、人として正しい道、あるいは生き方と言うものは時間が経っても変わらないと言うことか。むしろ、人生が昔より長くなっているぶん現代によく当てはまってる気もする。

で、タイトルのことだか、究極は2つの過ごし方しかない様に思う。

ひとつは、休みの日はもう一切合切、週明けどうなろうが全て開き直って忘れる。考えないことに決める。

もうひとつは、考えうる仕事の準備をする。予習が必要ならするし、様々な準備をする。そしてこの方法の最大の利点、『安心感』を得る。

月曜を迎えるのが怖いのは不安感もあるのだと思う。なら、その不安を準備と用意で打ち消す。ただし、この方法はせっかくの休みを結局仕事に費やすのと対して変わらないと言うことになるが…。

自分は、今回後者を選ぶ。今日の午後は明日以降の準備をしようと思う。

ただ、どちらの方法をとったにせよ、夜のお酒は不可避。酒に頼ると言う道は避けようがない。これは毎日のことなのだが。

そして、家康の言葉に戻るわけだ。急ぐべからず。現代人も昔の人とは違う、重い重い荷物をいっぱい背負っている。あまりにも先を考え過ぎ、不安を煽ってもその予測通りには現実は進まないものだ。逆に思ってもみなかったことも起こる。だから、ある程度の開き直りはきっと必要なものなんだろう。こころの安定のためにも。

自由とは

自由自由と人はいうけど、果たして自由とは何だろうか?

自分でもよく口にしてしまう。仕事で束縛されていたり、何かしらで時間が拘束されている様な時、あ〜、自由が欲しいと。

でも、自由とは自分で全ての行動を決め、その責任までを負うことであろう。成功したり、楽しいと思えればそれはそれでいいけど、何かしらうまく行かなかった場合、最悪責任を負わなからばならないような事態もあり得るのだ。

自由とは、つい労働の反意語と思ってしまうが、そうではなく、目的、手段、責任を負うある意味、危険なものでもあると思う。

自由とは、本当に使いこなせるものなのだろうか?なければ欲しくなるが、あればあったで、何かと面倒くさいものだとも思うのだ。

他人に行動を決めてもらう方が、時によっては楽な時も多々ある。

自由、以外に扱いづらいものだと今更思う。